対浅井・朝倉戦 ~志賀の陣~ |
信長が本願寺と和睦の交渉をしている最中の16日、浅井・朝倉軍は琵琶湖の西岸を通り、坂本まで進出してきた。およそ3万ほどの大軍だった。これは浅井・朝倉の兵だけではなく、近江の一揆が本願寺の檄文に従って大勢参加していたと思われる。 信長は、敵として浅井・朝倉しか念頭に置いておらず、防衛の軍勢としては、森可成に弟の信治を付けた3千ほどの兵を宇佐山城に置いているだけだった。しかし、可成は勇将だった。19日、1千ほどの兵を率いて宇佐山城を出て、坂本の町はずれに浅井・朝倉軍を迎え討った。前哨戦で勝利したものの、翌20日、浅井・朝倉軍は再び坂本に集結して可成軍に襲い掛かった。多勢に無勢、可成・信治、可成の与力尾藤源内・同又八、美濃の道家清十郎・助十郎兄弟、それに近江の国衆青地茂綱、合せて数百人がここで討ち死にした。 勝ちに乗った浅井・朝倉軍派、その勢いで宇佐山城に攻めかかった。城は城将だった森可成に代わって、与力の武藤五郎右衛門・肥田彦左衛門らが守っていたが、彼らは敢闘して見事に持ちこたえた。浅井・朝倉軍は、宇佐山城をそのままにして京都へ入り、山科、醍醐近辺を放火した。目指すは二条の将軍御所である。 信長はすぐに敵の動きに対処した。明智光秀と柴田勝家の軍を京都に戻して、将軍御所の守備を命じた。だが、京都に入った勝家は事態の重大さを見て、すぐ南方にいる信長に注進に及んだ。
京都に着いた信長には、休息の暇などなかった。翌24日、逢坂を越して近江に出陣する。朝倉・浅井郡は坂本に着陣していたが、信長との決戦を避けて比叡山に上り、方々の峰に陣を張った。山上に陣取る敵に戦いを挑むのは困難である。信長は比叡山延暦寺の僧10人ほどを呼び、次の通りの条件を出す。 ここで自分に味方してくれるならば、分国中の叡山領はすべて還付しよう。出家の身ゆえ一方に味方できないならばせめて中立を守ってほしい。もしこのまま敵に味方するならば、延暦寺は悉く焼き払うであろう。 延暦寺側は返事をしなかった。つまり、このまま浅井・朝倉の味方をするという覚悟を翻さなかったのである。信長は仕方なく持久戦を覚悟した。25日より叡山の麓をびっしりと取り囲んだ。総軍の殆どをあげての包囲戦だった。 両陣営のにらみ合いは、この後3か月近くも続く。その間、しびれを切らした信長は、朝倉の陣に使者を送って決戦を誘ったこともあった。だが、朝倉義景はそんな挑発には乗らなかった。 両軍は一度だけ堅田で衝突している。志賀郡の堅田は、古くからの琵琶湖水軍の基地である。湖上の特権を室町幕府からも容認されており、戦国時代には水軍さえ編成され、戦国大名からほとんど独立した形で発展した地域である。その地には近年、本願寺の勢力が浸透しつつあった。湖の南岸を征服した信長だが、この堅田の街は掌握しきってはいなかった。
翌26日、前波らの朝倉軍に一向宗門徒たちの加わった大軍が堅田を襲った。坂井のもと猪飼野ら地侍はこれに応戦、双方多数の戦死者を出す激戦になった。だが結局は多勢に無勢、坂井らはここで討ち死にし、堅田は朝倉軍の占領する所となってしまった。 叡山に着陣して織田軍の攻撃を封じる、時に応じて兵を出す。本願寺が味方しているから、門徒たちも応援してくれる。両軍のにらみ合いは、完全に朝倉・浅井側のペースで進んだ。 信長は行き詰ってしまう。国許の尾張からは、長島の一向一揆が蜂起し、小木江城を守っていた弟の信興が攻め殺されたという情報も入った。また叡山に籠る浅井・朝倉軍もそろそろ兵糧が尽きてきた。しかも朝倉軍にとっては、日を送るほど雪が深くなって帰陣しづらくなってしまう。両陣営我慢比べの状態だった。 ここで先に動いたのは信長であった。将軍と天皇の両方を動かすのである。 11月28日、将軍義昭は三井寺まで下り、関白二条晴良を動かして和睦の仲介に努めさせた。さらに12月9日、延暦寺宛てに綸旨が出された。 織田と浅井・朝倉との和睦が成立したのは12月13日であった。帰陣の保証の為、重臣の子が人質として交換された。信長方からは柴田勝家の子と氏家直元の子が朝倉方に渡された。 信長は和睦が成立すると、すぐさま陣を引き、その日のうちに軍を返す。一方の浅井・朝倉軍は、織田軍が引き揚げた後の15日に山を下り、深い積雪の道を北へ向かった。 浅井・朝倉両氏にとって、信長を倒すならば、姉川の戦いよりもこの志賀の陣であったはずだ。江南の一向一揆と連携して山を下ったならば、勝機は十分にあったはずである。それをただ比叡山に立て籠もるばかりで、みすみす好機を逃してしまったのである。 信長からすると、この志賀の陣は彼の戦歴の中でも最も苦しい戦いであった。その苦戦を、将軍と天皇を動かすことにより切り抜けたのだが、敵がそれ以前に決戦を挑んだならば、勝敗の帰趨はわからなかったに違いない。 |