対浅井・朝倉戦
 ~本願寺敵対~
 


 野田・福島攻め
姉川の戦いにかろうじて勝った信長は、7月4日の夕刻に上洛、直ちに将軍御所に行って勝利を報告した。そして、7日未明に京都を発ち、岐阜に戻った。だが、岐阜でゆっくりできる事態ではない。近江・越前のみならず、信長の敵はあちこちにいる。
7月21日、三好三人衆ら1万3千もの軍勢が、阿波から渡海して摂津中島天満森に陣を張ったのである。盟主として管領家嫡流の細川六郎が立てられ、紀伊雑賀の鈴木孫一や信長に美濃を追われた斎藤龍興もこの軍に加わった。彼らは石山本願寺の西のデルタ付近にある野田と福島に砦を築き、京都と畿内を窺う体制をつくった。摂津では池田重成が三好方に味方して伊丹正親と戦う。さらに淡路からは三好一族の安宅信康が到着。尼崎に陣を張る。
京都の将軍義昭は、この事態を岐阜の信長に連絡する一方、畿内の守護たちに三好軍の追討を呼びかけた。河内の三好義継・畠山高政は、河内の古橋城に兵を置いて防ごうとしたが、三好方はここを攻めてあっさりと攻略してしまった。大和の松永久秀も、大和の信貴山城に移って三好方と一戦を交える体制を取ったが、留守中の大和では筒井ら国衆たちが不穏の動きを見せているため、積極的な行動に出られない。戦局は明らかに三好方の優勢であった。
  信長出陣息子
信長が岐阜を発ったのは、8月20日だった。23日に京都に入る。1日休息しただけで、25日に南方へ向けて京都に出陣した。信長に直接従った兵は3千ほどだったが、前々日から京都を発向していた兵は4万ほどもあったという。
26日、信長は本陣を野田・福島から5キロメートルほどの南方の天王寺に置く。先陣として信長の部将の他、三好義継・松永久秀・和田惟正ら畿内の守護たち、それに幕府奉公衆も従軍し、びっしりと敵の本拠野田・福島の両砦を囲んだ。両砦に籠った三好軍は、ひたすら長期籠城戦の構えに切り替え、全く砦から出なかった。
30日には、信長の要請により義昭自らが出陣した。二千余の兵がそれに従った。そして、9月2日に摂津中島にある堀城に入った。8日、信長は天満森に本陣を進め、敵城の周囲の水城を埋めて、いよいよ敵城の攻略にとりかかった。
攻城戦は大詰めに入ったかに見えた。12日、信長は義昭とともに、敵城とは目と鼻の先の海老江城に移動。軍勢は塀際まで攻め寄せて、鉄砲をもって攻撃する。進退窮まった城内からは和睦の要望が出された。しかし、信長は取り合わなかった。このまま両砦を力攻めにして、三好三人衆たちの息の根を止める覚悟であった。
  本願寺敵対する息子
9月12日の夜半、本願寺の鐘が突然打ち鳴らされた。そして間もなく、信長の軍が守る楼岸・川口の砦に鉄砲が撃ち込まれた。本願寺が敵となって、信長方を攻撃したのである。
すでに9月6日、本願寺の法主顕如は、近江中郡の門徒に宛てて、無理難題をかけてくる信長と戦うようにとの檄文を送っていた。さらに10日には、信長の敵浅井氏と懇意にする旨の書札を通じていた。野田・福島を奪った信長は、すぐ近くの石山本願寺の明け渡しを要求してくるに違いない。そうした危惧が顕如をして、信長に反抗する決意を固めさせたのだろう。
14日、本願寺から一揆勢が出陣し、信長の馬廻たちが守る天満森を攻撃した。馬廻たちはこの攻撃を受け止めて、淀川の春日井堤というところまで反撃。ここで激しい戦闘があったが、遂に一揆勢を追い払うことができた。
しかし、本願寺の敵対により、たちまちのうちに攻守ところを変え、信長軍は押されがちになってしまった。16日、信長は攻撃の手を休め、本願寺と和睦の交渉に出た。どのような条件について話し合われたかは不明だが、何度も交渉したにもかかわらず、結局それは物別れに終わってしまった。
20日、再び戦いは始まった。本願寺の一揆は、榎並の陣を襲った。この戦いで、その陣を守っていた将軍直臣野村越中守が戦死した。
このような状況では、海に追い込まれてしまいかねない。22日、信長は義昭を伴って、海老江の陣を引き払い、天満森に戻った。そこに追い打ちをかけるかの如く、北方からの注進が信長にもたらされる。




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