対浅井・朝倉戦 ~姉川の合戦~ |
稲葉は期待に応えて、六角方となって守山を襲ってきた土豪たちを撃ち破り、何とか琵琶湖沿岸の地を確保することができた。それを見て信長は、5月9日に京都を出、岐阜へ向かった。義昭には、敵の攻撃があればすぐに再上洛すること、勅使の山科言継には、皇居の修理は奉行に続行を命じていることを伝えるのを忘れなかった。 12日、信長は永原(現滋賀県野洲市)に着き、数日滞在する。ここで信長は通路の確保のため、琵琶湖南岸に沿って武将を配置するのである。 森可成を宇佐山に置いたのは、これより少し前の3月であるが、このとき新たに置かれたのが、佐久間盛信を永原城、柴田勝家を長光寺城、中川重政を安土城である。この年の6月にはさらに、木下秀吉を横山城に、翌年2月には丹羽長秀を佐和山城に置き、この体制は完成する。そして、はじめは暫定的な通路確保に過ぎなかったこの体制が、その後各宿将たちに近江の国衆が与力として付属されることにより、近江の分封支配体制に発展するのである。 この体制ができた直後の元亀元年(1570)5月下旬、息を吹き返した六角氏が草津方面に出張してきた。いったんは没落した六角氏だが、甲賀・伊賀の土豪を中心とする数千の兵力を擁していた。柴田勝家と佐久間盛信が、連携してこれに立ち向かった。6月4日、両軍が野洲川北岸の乙窪周辺で激突。戦いは織田方の勝利に終わり、六角氏は780もの兵を討たれ南へ逃走した。
信長の出陣は6月19日だった。その日のうちに堀の持ち城である長比砦に入る。そして、軍勢が整うのを待つ。 21日、軍勢を整えた信長は、一気に小谷城近くまで進む。そして、小谷の南方2キロメートルほどの虎御前山に着陣した。小谷城は、琵琶湖から比高約300メートルの要害である。力攻めをかけても、そう容易くはは攻め切れそうもない。信長は作戦を変え、長期戦を覚悟し、そのための足掛かりを作ることにした。新たに攻略目標とされたのは、小谷の南方約9キロメートルの位置にある横山城だった。 21日、信長は退却を始めた。それに応じて小谷城から軍勢が出て、その後を追った。敵に後ろを見せて移動する織田軍の危うい場面である。だがこのとき、殿軍を命じられた馬廻の梁田広正・佐々成政・中条家忠らが目覚ましい活躍を見せ、無事に織田の総軍を龍ヶ鼻(現長浜市)まで移動させることに成功した。 24日より横山城攻めが開始された。間もなく徳川家康が5千ほどの兵を率いて合流した。だがそれと同時に、浅井氏にも朝倉軍約8千が小谷城下に援軍として入った。長政は6千の兵とともに小谷城を出て朝倉軍と合流、横山城後巻のために大依山まで進んだ。 27日夜、夜陰に紛れて朝倉・浅井軍は南へと動いた。そして浅井軍は野村に着陣。朝倉軍はそれに引きずられる形で三田村に陣取った。つまり、姉川を隔てて織田・徳川軍と向かい合う位置まで進出したのである。
巳の刻(午前10時)、徳川軍が真向かいに布陣している朝倉軍に襲い掛かった。その東方の位置では浅井軍が織田軍に向かって突進した。遮るものが何一つない平地での戦いである。普通であればこうした場合、兵力に勝る方が有利に展開するはずである。織田・徳川軍は2万を超えていたはずである。対する朝倉・浅井軍は1万4千ほど。 ところが浅井軍は、3倍ほどの織田軍の備えを次々と突き崩し、信長の本陣までに肉薄したと伝わる。だがこれは、江戸時代に書かれた本が、姉川の戦いの勝利は家康の敢闘による、ということを強調しようとした結果で、大げさな記述のようである。それでも、浅井長政の意気込みはすさまじく、浅井軍がかなり健闘したのは間違いなさそうだ。信長を裏切った以上、彼を倒さなければ滅亡あるのみ。この場で決戦を最も望んだのは長政だったはずだ。姉川での遭遇戦となったのも、長政が主導した結果だった。 浅井軍は精いっぱい戦ったものの、勝敗が決するにはそう時間がかからなかった。やがて朝倉、浅井と崩れたち、北国脇往還を北へ向かって退却した。織田・徳川軍は、逃げる軍を小谷近辺まで追撃した。 この戦いで朝倉・浅井軍の戦死者は8千、あるいは9千という。大げさな記述ではあるが、追撃戦で相当数の兵を討ち取ったことは間違いなさそうだ。 この戦いに勝った信長は、予定通り横山城を落として木下秀吉を置き、江北に対する前線基地とする。さらに南方に孤立している佐和山城を丹羽長秀らの軍勢に包囲させ、翌年2月に開城させた。一時は岐阜と京都を結ぶ通路さえ危うくなっていた状態からは、何とか脱出することができた。 だが、姉川の戦いは、朝倉・浅井両軍に決定的なダメージを与えたというわけではなく、むしろ信長が負けなかったという言い方の方がふさわしい気がする。朝倉・浅井両氏との戦いは、この後も3年も続くのである。 |