対浅井・朝倉戦
 ~朝倉攻めの失敗~
 


 大名への呼びかけ
元亀元年(1570)1月、信長は諸国の大名たちに書状を送った。宛先は畿内・近国の大名や国衆が中心ではあるが、東海道は三河の徳川家康、東山道は甲斐の武田氏、北陸道は神保氏、西国は出雲の尼子氏、備前の浦上氏など広い範囲にわたっている。
その内容とは、皇居の修理や幕府の御用、その他天下静謐の為の行動を起こすため、自分は2月上旬に上洛するので、皆様も上洛して禁裏(天皇)と幕府(将軍)に礼を尽くしてほしいというものである。つまり、信長は禁裏・幕府という古来の権威を操ることによって諸国の大名たちを支配していこうとしていたのである。逆に言えば、これに従わないものは討伐するというものでもある。
信長は無論、呼びかけた大名たちすべてが京都に上ってくるとは期待していない。遠国はともかく、近国の大名の中に従わない者がいたならば、上洛した大名たちを従えてそれの討伐に乗り出す算段である。
その信長の呼びかけに応じて上洛した大名は、三木頼綱、北畠具房、徳川家康、畠山高政、一色義道、三好義継、松永久秀など多数に上った。だが、越前の朝倉義景からは何らの音沙汰もなかった。
  電撃戦朝倉攻め息子
4月20日早朝、信長は3万ほどの大軍を率いて京都を出発した。信長の部将はもちろん、松永久秀、徳川家康らも参陣している。信長は当初、若狭国の武藤氏が自分に従わないため、その討伐に乗り出すという触れ込みであった。
だが実際は、朝倉義景攻めであった。足利義昭にとって朝倉氏は2年間客人として世話になった恩人である。だから公に公言するわけにはいかなかった。そのため、若狭の一国人に過ぎない武藤討伐に名をかりて、朝倉攻めを断行したのである。
20日に京都を出発した信長は、22日には若狭に入る。本来武藤攻めならばここで西へ向けるべきだが、そうせず25日には東の越前へ向かって進軍を開始。朝倉の将寺田采女正のいる天筒山城に攻めかかった。天筒山城は標高171ⅿの山上に築かれた要害であったが、信長軍は力攻めを敢行。その日のうちにさすがの要害も陥落した。
翌26日には、天筒山の北西にある金ヶ崎城に攻めかかった。これもその日のうちに開城する。さらにその南方にある疋壇城も守兵が逃亡し、2日間で信長は敦賀郡全域を制圧した。
この勢いのまま木の芽峠を越せば、朝倉義景をたちまちに追い詰めることができる。電撃戦を展開していた信長であったが、とんでもない情報が飛び込んできた。義弟で同盟者の浅井長政が離反し、朝倉方になったというのである。
信長はこれをなかなか信じなかったという。しかし、次々と入る情報は同様なものばかりであった。こうなれば信じざるを得ない。このまま進撃すれば腹背から攻められることになる。信長は撤退を決意するしかなかった。

  撤退息子
撤退するにしても、今や敵となった北近江だけではなく、進軍してきた西近江路も浅井氏の勢力圏である。信長は最も危険の少ない若狭街道を退却することに決めた。
信長が退却したと聞くや、朝倉軍は追撃してくるに違いない。信長は、殿軍として金ヶ崎城に木下秀吉・明智光秀・池田勝正らの軍勢を残した。この戦いで秀吉が一人奮戦したと伝わるが、主力をなしていたのは池田勝正の3千の兵であり、秀吉一人の奮闘ではない。
信長の退陣は28日の夜だった。わずかの馬廻りだけを従えて、ひたすら南へ向かった。部将たちも従軍していた幕府直臣衆も信長を追いかけるばかりだった。世にいう「金ヶ崎の退き口」である。
この退陣の最大の鍵は朽木元綱の出方だった。朽木氏は途中の朽木谷の代々の領主である。幕府の奉公衆となっているが、一方では浅井氏に従い、知行の宛行を受けている。
信長にとって幸いなことに、朽木氏と浅井氏とのつながりは薄かった。逆に朽木氏は、京都を逐われた将軍を匿うなど幕府との関係は深く、2年前には上洛直後の義昭が朽木谷の本領を安堵したという事実もある。また、従軍していた松永久秀が元綱を説得したともいう。久秀と元綱は旧知の間柄であり、充分考えられる。いずれにしても元綱は逃亡中の信長を歓待して、無事に通してくれたのである。
信長が何とか京都にたどり着いたのは30日の亥の下刻(夜の11時頃)。従う者はたった10人ほどだったという。




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