天津神系の神社と神
~天津神とは~
 

 日本の神々
日本の神々は、昔から今に至るまで、数多く認められてきている。その数を総称して「八百万の神たち」「八十万の群神」等と呼ばれてきた。八百万や八十万とは、数を限定するものではない。八は、古来「末広がり」のめでたい数とされ、多数を歓迎する表現であるから、両方とも神々が数多いことを称えて言う言葉である。
古く「万葉集」の歌などには、いたるところで「天地の神」と歌って神々を総称しているが、この数多くの神々を分類して早くから言われてきたのが、天津神と国津神という二大別である。
平安時代の延長5年(927)に完成された法律書「延喜式」巻8に載る、古代の祝詞の中でも最も古い「大祓詞」には、
「天津神ハ天ノ磐戸ヲ押披キテ、天ノ八重雲ヲ伊頭ノ千別二千別キテ聞食サム」
「国津神ハ高山ノ短山ノ末二上リマシテ、高山ノイホリ短山ノイホリヲ搔分キテ聞食サム」
とあって、天津神は天井遥かの雲の上におり、国津神は高い山低い山の重なる地上の山中にあって、イホリ、すなわち雲や霧の中に鎮まるとしている。
和銅5年(712)に成った日本最古の「古事記」や養老4年(720)完成の最初の国史「日本書紀」等の創世神話にも、その冒頭に「天地初発(天地初めて発せし)」とか「古天地未剖(古に天地未だ剖れず)」とある。古代人が世界を観る場合には、「天」と「地」すなわちアメとツチないしクニとの大きな二つの対応をそのすべてと想像し、まず天と地に神の存在を認識したと考えられる。記紀神話には、やがて個別の神々が誕生する中で、「海」の神々や「黄泉」つまり地下の神々など、いわゆる境界ないし死後の世界も登場してくるが、アメはアマ(海)に通じ、海上遥かな「常世」や「根ノ国・底ノ国」も他界と通じて、当初は「天」と「地」とそれぞれ抱合されて、未分化であったとも考えられる。
 神祇祭祀
大化の改新(645年)以来の律令国家になって神祇官の下に整備されていった「神祇祭祀」とは、「神祇」すなわち「天神地祇」の祭りを言うが、この天神地祇っもまた、アマツカミ・クニツカミと訓読みして、要するに神々の総称である。そしていうまでもなく、これもまた唐の時代に中国で使われていた熟語を借用したものである。
中国で「天神」といえば、昊天上帝という天空の神や、太陽・月・星の神々、また司中・司命といった宇宙の中心や、生命を司る神々、風や雨の神など、文字通り天上の自然神であり、また「地祇」といえば、后土・社稷という大地の神、五祀という季節ごとに春は戸口、夏はかまど、秋は門、冬は道、土用は土地と、それぞれに祭る5カ所の守り神、それに五岳と言って泰山など東西南北と中央に聳える5つの名山の神々、というように、地上の季節や方角にきちんと分けて神々を配置している。
ところが、日本で言う「天神地祇」の場合は必ずしもそうではない。たとえば「令義解」という解説書によれば、「天神」には「伊勢、山代鴨、住吉、出雲国造斎神」、地祇には「大神、大倭、葛木鴨、出雲大汝神」とあって、これらはいずれも各地に古くから鎮座する有力な神社の祭神にほかならない。
「天神」と言っても別に天上の神々ではなく、「地祇」といってもとりたてて地上を司る神々ではない。地域や方角の面でも一定の区別もなく、むしろ出雲では天地の神が同居していることになる。つまり中国から「天神地祇」という言葉を借りてはいるが、その分類の仕方が日本独特のものなのである。




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