明智光秀
(1526?~1582)

  経歴 
明智光秀の前半生は特に謎が多い。
通説では、美濃の守護土岐氏の支族である恵那郡明智城主明智光綱の子と伝えられる。一族は斎藤道三に仕えたが、道三が息子の義龍に攻め滅ぼされたのちは離散し、光秀も諸国を流浪し、永禄5年(1562)頃には越前の朝倉氏に召し抱えられたという。その後、松永久秀によって将軍足利義輝が殺されると、弟の義昭が細川藤孝らとともに朝倉氏を頼ると、光秀は藤孝と親交を結び、将軍家再興に力を貸す。だが、朝倉家では光秀を良く思わないものが多く、光秀は朝倉家を出奔し、織田信長に義昭を上洛させるように仲介。以後義昭は信長に奉じられて上洛し、光秀も信長に仕えることになる。光秀は京都奉行に任ぜられ、さらに元亀2年(1571)には近江国滋賀郡を与えられて坂本城を築き、天正3年(1575)には惟任の姓を授けられ、従五位日向守に任ぜられるなど、破格の出世を遂げた。
その後も、紀州雑賀攻め、石山本願寺討伐、大和の松永久秀攻略、丹波一国攻略などに活躍し、天正8年には丹波一国29万石と亀山城を与えられた。
天正9年以降は、光秀主体で戦争を遂行した記録がなく、主に信長に近似し、信長の軍事行動に追従する形が多く、天正10年武田攻めなどに従軍しているものの、以前ほどの活躍が見れなくなってきた。駿河一国を与えられた徳川家康の接待を命じられ、その後羽柴秀吉の中国毛利攻めに援軍するように命じられるなど、いわゆる方面軍司令官的な活躍がなくなっていたことは注目すべき点であろうか。
そして織田信長が京都本能寺に宿泊している隙をついて、天正10年6月2日早暁、本能寺をかこみ、信長を自害に追い込んだ。光秀は信長後の天下人となるべく京都周辺と近江、美濃を押さえることには成功したようだが、電撃的な速さで備中から機内へ引き返した羽柴秀吉に山崎の合戦で敗れてしまう。その敗走のさなか、山科で農民の竹槍に突かれて不覚の最期を遂げてしまう。
   明智光秀という人物
 その能力
① 行政手腕
京都丹波地方ではいまだに光秀を偲ぶ声が少なくないという。光秀は丹波を攻略、占領した「仇敵」でもあるのだが、その丹波に対して偲ばれるほどの徳政を行ったのだろう。坂本城や丹波亀山城の築城ぶり、その城下町の整備ぶりは織田家の並みいる重臣の中でも抜きんでたものがあったようだ。羽柴秀吉は光秀よりも2年ほど後に初めて北近江の所領を与えられ大名になっており、信長がその秀吉より先に光秀を抜擢したのも、信長の中では光秀こそが適任と判断したからであろう。まだ詳しい研究をしていないが、少なくとも相当な行政手腕があったことは認めてよいと思う。
② 軍略手腕
もちろん、信長が抜擢したほどの人物である。軍略に秀でたものがなければ一軍を任せられることはない。天正年間初年度においては長篠の合戦、石山本願寺攻め、松永久秀攻略に続き、丹波一国の攻略を任せられた。この丹波一国の攻略はかなり苦戦しながらもなんとかその平定作業を終えている。このあたりの経緯は、信長に司令官抜擢された羽柴秀吉や柴田勝家とさほど変わらない。秀吉も勝家も諸地域平定当初は相当な時間と戦力を浪費した末に平定の緒戦を何とかクリアしている。だが、秀吉や勝家がその後の攻略戦で鮮やかな戦いを続けていたのに対し、光秀はこれ以降その軍事行動に目立ったものはない。おそらくは、秀吉や勝家(これに滝川一益も入るか)が諸国の大名並に一軍を率いての地域攻略への軍略手腕が卓越していたのに対し、光秀はやや劣る気がする。そのあたり信長も見抜いたのではないか。同じように信長重臣の丹羽長秀が、ある時期から主に安土城築城などの内政主体となって一軍の対照的存在から外されたこともあり、信長はこの点では見る目がシビアだ。もちろん、山崎の合戦で3倍近い秀吉軍に善戦しており、その戦ぶりは名将にふさわしいものがあるが、守勢に回った時の強さ、比較的狭い地域における攻略には秀でているものの、大軍を率いて遠征といった才覚には乏しかったのではないだろうか。もちろん、秀吉などと比べればという話だが。
③ 外交・交渉能力
光秀は教養人であり、足利将軍家との交流の深さからも、礼節をわきまえた外交手腕、交渉術を持っていたことであろうことは推察できる。信長上洛後、光秀がいなければ将軍家との取り持ちは難しかったであろう。だが、四国の長曾我部との外交責任者であった光秀は、最終的には信長の方向転換の影響を受けて、その座から降ろされ、結局信長は四国攻略の上長宗我部の獲得した所領を奪おうとした。結果論ではあるが、光秀は朝廷や将軍家といったいわゆる上流階級への交渉事は得意だったと思うが、諸大名や国人領主などへの交渉術にはやや疑問が残る。丹波攻めに相当な時間と犠牲が生じたのも、光秀及びその麾下の丹波の国人領主などへの交渉が難航したからだともいえる。羽柴秀吉は無教養に近いが、彼独自のネットワークを生かしての交渉の巧みさが光る。両者の交渉力の差がもろに出たのは山崎の合戦時だ。光秀は細川藤孝をはじめ、織田配下の諸将を味方につける事がなかなかできず苦戦したのに対し、秀吉は丹羽長秀、池田恒興などを取り込み、結果的に明智方の3倍近い兵力を味方にすることができた。ここでも秀吉との比較だけで論ずるのは無理があるが、光秀の限界をここに見るような気がする。
 その性格
端正な顔立ち、怜悧な頭脳。信長最大の片腕であり頭脳と言っても過言ではなかっただろう。いわゆる荒れくれの武将とは違い、冷静かつ冷徹な判断力を持ち、感情をあらわにすることがめったにない、冷ややかな感じの印象が光秀にはある。(その印象も、「麒麟が来る」ではかなり覆りそうな予感があるが)
陰と陽という対比でいえば「陰」になってしまう。その「陰」さが、天正10年前後に顕著になっていく。この頃の光秀はかつての信長の頭脳として活躍したほどではなく、その存在感がやや薄くなったころだと推察する。冷徹で冷ややかな彼は、焦燥感を持ったのだろうか。普段冷静で感情を見せないような人間って、こう追いつめられると実はあまり強くないものなのかもしれない。私は本能寺の変は、光秀の計算づくで行われたものだとは思っていない。追い詰められた彼がある意味衝動的な発作で起こしてしまった事件だと思う。冷静な人間が陥る罠にはまったというのが真相ではないか?結果論ばかりで申し訳ないが、その結果が「陽」の秀吉に勝利をもたらし、「陰」の光秀が敗北してしまうのだ。
一方で、光秀は弱者には優しい印象がある。家臣たちへの優しさ、領民たちへの優しさ、そして女性への優しさ。特に光秀は「女性への優しさ」が感じる。おそらく彼は正室以外に側室を設けてはいない(はずだ)。当時の武将としては極めて珍しい。(他には黒田如水など)今でいうフェミニストだったのではないか。現在の世からすれば一番女性からも信頼が集められそうな人物であるが、当時の戦国の世ではむしろ異質で、これも光秀の「弱さ」に見られた可能性もある。
一方で、残虐さも兼ね備えていたようだ。むろん、当時の戦国武将というものは基本残虐であろう。信長の比叡山焼き討ちでは、反対する光秀の姿が登場するが、私はむしろ真逆で、光秀こそが最も奨励したのではないかとさえ思っている。事実、光秀は焼き討ちに際して最も徹底して殺戮していたようだ。後年の丹波攻略に際して時間と労力をかなり擁して苦戦したのも、光秀が徹底して攻撃した末のことだったのではないか。普段冷静で優しいな人間ほど、一度切れたら止まらない。そんな性格が光秀には垣間見られるように思う。
   管理人の光秀評
2020年大河ドラマ「麒麟が来る」を見たら、印象がまた変わるかもしれない。いかんせん謎が多すぎる人物ではある。上記の能力や性格の評価も、誠に勝手な私の印象だけで述べている。(笑)
光秀と言って思い浮かべることといえば、やはり「本能寺の変」になってしまう。となるとどうしても「負」の印象で語らざるを得なくなってしまうのだが、そもそも変を起こすほどの存在に成り得たのはなぜか?というところから検証しないと、光秀という人物がわかるはずもない。
全く持って言えることは、信長に信頼されるほどの人物なのだ。相当な頭脳、力量、手腕があったことは疑いようがない。人的な魅力もしかりだ。また、上記のように「フェミニスト」的な存在だったのではないか、という点は光秀という人物に私が惹かれる点の一つである。正直、「女がいっぱいいて、あれこれ言わせた」的な話が私は好きではない。(笑)なので、光秀はきっとそんな男ではなかったと信じたいだけなのかもしれないが。
脱線した・・・( ;∀;)
私は、歴史的敗者、しかも負けると分かって挑んで散った人物に惹かれることが多い。戦国武将では石田三成や真田幸村、幕末史では土方歳三、河井継之助、中島三郎助等といった人物である。三成は勝つつもりで堂々と挑んだとは思うが、一方で己が積み重ねたすべてを失う覚悟を持って戦った、と信じている。ゆえに三成が好きなのだが。(これも余談)
他の人物たちも、もちろん勝つつもりで挑みつつ、負ける覚悟もあった人たちである。こういう人物にこそ魅力を感じる。
しかし、明智光秀はどうであろうか?失礼ながら光秀にその決意と覚悟が強くあったように私には思えない。上述したように、光秀は本能寺の変を衝動的に起こし(多少の計算はあったかもしれないが)、その後の計画も水際立ったものだったと到底思えない。変を起こしたのちの光秀は、流されるように時間を過ごした感がぬぐえない。もちろん、変後の京都朝廷への手配りや、畿内周辺の占領や根回しだってある程度はやっただろうが、秀吉が「すべてを捨ててこの一戦に賭けるのだ!」と山崎の合戦で見せた強い決意を、光秀には感じない。3倍の敵であった秀吉にさえ、光秀は「勝てるだろう」くらいに思っていたのかもしれないが、敗戦後に近江へ逃げる途中に竹槍で突かれて死ぬ不覚ぶりに、光秀の覚悟が定まっていない「弱さ」を感じてしまう。
なので私は光秀に、三成や幸村、土方歳三等へのような強い思い入れ(憧れともいえる)を感じない。むしろ、強い覚悟が持てない光秀という光秀の「弱さ」にこそ、真の魅力があるのではないかと。強い決意と覚悟を持てる人なんて一握りだと。多数の決意も覚悟もできない弱い人物に、本当の人間らしさがあるんじゃないかと。「麒麟が来る」では、そんな光秀の姿が描かれることを期待します。


Back