尾張制覇 ~赤塚の戦い~ |
普通の19歳ならば特段問題はないが、信長は普段から奇妙な振る舞いが多く、世間では「大うつけ」呼ばわりされている。せっかく信定・信秀二代によって繁栄した織田弾正忠家が、無能な三代目によって衰亡してしまうだろう。周囲はそのような予感とともに、信秀の死を見送ったに違いない。 当時の尾張国とその周辺はどのような状況であったか。上四郡(葉栗・丹羽・中島・春日井)守護代織田信安、下四郡(愛知・海東・海西・知多)守護代織田彦五郎、犬山の織田信清、その他尾張の有力国衆は、信秀の時代には彼と事を構えていない。しかし、それも信秀の器量があってこそである。 北方の美濃の斎藤道三とは、信長の正室に道三の娘(濃姫もしくは帰蝶)を迎えることにより、一時的にせよ同盟が成立している。だが東方は、三河を実質的にその支配下に置き、さらに尾張との境目で攻勢に出ている今川義元に押されがちな情勢であった。
家中の予想が現実のものとなった。信長が織田弾正忠家を継いだわずか1か月後、鳴海城城主の山口教継が信長に背いた。今川氏に通じて、応援の兵を招き入れたのである。息子の九郎二郎を鳴海城主として入れ置き、笠寺に砦を構えて今川の五人の将を置いた。自らは中村に築いた砦の守備を固めた。 4月17日、信長は鳴海城に向かって出陣、古鳴海の三の山に着陣する。8百ほどの兵であった。それに対して九郎二郎は千五百の兵を連れて鳴海城を出陣した。信長もそれを三の山から見て動いている。 両軍は、赤塚の地で衝突した。入り乱れた接近戦となった。矢に射られて落馬したものをめぐって、両方から引っ張り合うといった光景も見られたという。 結局、巳の刻(午前10時)から午の刻(正午)まで戦ったが決着せず、信長も九郎二郎も軍を返している。 |