会津藩の教育と白虎隊
 ~尚武の気風~
 


 文より武を尊んだ気風の会津藩
会津藩祖保科正之は、当代一流の程朱学(中国の儒学者程コウ、程イ、朱熹の学)の学者であり、「二程治教録」「伊洛三子伝心録」「玉山講義附録」など程朱学に関する優れた研究書を残している。にもかかわらず、家訓の中で文武両道のうち文に励めとは一言御っていないのは何故であろうか。
この点については、元白虎隊士であり、維新後、東京帝国大学総長を務めた山川健次郎は、会津藩は親藩の大藩として奥州の押さえの要であり、文もあわせて奨励すれば必ず柔弱にながれてしまうとの正之の考えからであろうと推測している。
会津藩というと、藩校日新館に代表される教育レベルの高さと厳格な規律ばかりが注目されるが、藩が武を積極的に奨励した結果、山川健次郎が日新館で学んだ頃の藩内の雰囲気は部を尊ぶ気風が強く、勉強ばかりに精を出すものを「書物読み」と言って軽蔑したり、「論語などを頭の上に置いても、刀で切れば切れる」等と言うものまでいて、「藩士ともすれば殺伐の風があった」という。
 荒々しい気風の会津藩
なかなか荒っぽかった当時の雰囲気を知る事ができる逸話を「男爵山川先生遺稿」から紹介してみる。抜粋文中に「辺」という言葉が出てくるが、これは住んでいる地域区画の事で、「組」という言葉で表されることもある。若松城下は8~10の辺に区画されていたようで、藩士の子弟は同辺の子供とのみ交際するのが普通であり、他辺との付き合いはほとんどなかった。
同辺の者が揃って市内を歩く時には、最年少者を前にして同年齢の者が各々横隊に並んで押し歩くので、若し他辺の隊列と出会うた時は年長の引率者が「右へ寄れ」とか「左へ寄れ」とか指揮するが、狭い道に掛かると何方でも避けることが出来ぬので、「お前方除け」「イヤ貴様の方が譲れ」といふ争いになって、果ては喧嘩となるのだ。
このように他愛のない原因で始まった喧嘩であっても、
自分の辺の者が一人でも他の辺の者と喧嘩をすれば、同辺の者は死力を尽くして助けねばならぬ義務がある。この義務を怠るが如き臆病者は大変な制裁を受けるので、寧ろその制裁が恐ろしさに喧嘩を大きくするのだ。
ということになる。また常々同辺の集まりの訓示で「喧嘩の時は負けるな。大きい人の言ふことを聴け」と言い聞かされるため、一旦喧嘩が始まってしまうと皆引っ込みがつかなかったようである。

尚武の気風
上記と同様の記事は、林権助(英国大使、清国大使、枢密院顧問などを歴任した外交官)の自伝「わが七十年を語る」の、藩校日新館への登校風景の描写にもみることが出来る。
日新館と云ふのは、非常に規律の立った学校だった。毎日登校するときも、ちゃんと通学区域がきまっている。その区域は4つか5つに分かれていたが、同じ区域の者は揃っていたものだ。一番年の若い奴が先に行くんだ。それが時によると、他の方面から来る一隊と出くわす事がある。すると隊長は、若い者は突当たれといふんだ。いわば豆白兵戦だね。
会津藩士の子弟は、幼い頃からこのような雰囲気の中で成長するのである。自然、尚武の気風を身に付けて成長することになったであろう。
また、藩主在国の年には「追鳥狩」と称する大規模な軍事訓練を猪苗代湖にほど近い大野原でほぼ欠かすことなく行い、士気が緩まぬようにしていた。追鳥狩は会津藩を挙げての大規模な軍事演習だったから、追鳥狩が行われるときは、隣藩の二本松藩では会津藩との藩境に兵を出し、防御に備えたと言われる。




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