会津藩の教育と白虎隊
 ~藩祖保科正之と家訓15ヵ条~
 


 藩祖保科正之
慶応4年(1868)8月23日、飯盛山で集団自決を遂げた白虎隊士中二番隊士はいずれも、幼い頃から会津藩を背負って立つべき人材として厳しく訓育された上級武士の子弟である。
彼らは16,7歳という短い人生において、どのような環境に取り囲まれて成長し、どのような教育を受け、結果、どのような人間に成長していたのだろうか。彼らが生を受けた会津藩とはどのような藩であったのか。
あらゆる社会集団は、創立者の人格の影響を後々まで色濃く残すものである。となると、会津藩においては当然藩祖保科正之にさかのぼってみていく必要がある。

会津藩祖保科正之は、慶長16年(1611)5月7日、江戸神田白銀町で生まれた。父は将軍徳川秀忠、母は豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した北条氏の旧臣神尾伊予の娘・静である。有名な話であるが、秀忠の正室於江与は大変嫉妬深い性質だったから、正之は父秀忠に公式に認知されることなく、生年期までを不遇の境涯のもとに過ごした。しかし正之は一片の不満の言葉も漏らさず、その態度は常に「謙退自如(へりくだって普段とまったく変わらない様子)~会津松平家譜~」たるものであったという。非常に理性的・自立的な正之の性質をうかがい知ることができる。
正之に光が当たり始めたのは、寛永9年(1632)実父秀忠が死去し、異母兄家光が将軍として実験を振るうようになってからの事である。兄家光に深く信頼され、加増に次ぐ加増を受けて会津23万石の藩主になり、幕政に深く関与するようになった正之は、やがて家光の死に際して、幼い嗣子家綱の後見たるべきことを託される。
 家光からの信頼にこたえようとする強い意志
「会津松平家譜」に、瀕死の家光と正之との間で交わされた次の問答が掲載されている。
大将軍家光病大にすすむ。正之を寝殿に召し其の手を執りて曰く、嗣子家綱は幼なり、今汝に託す善く之を補佐せよと。正之涙をふるいて曰く、死生之を奉じ誓ひて他なし(命ある限り命令を守ります)。また台慮を労する勿れ(心配なさらないでください)と。大将軍喜色あり曰く、吾が心始めて安し(私は初めて安心することができた)と。言い終わりて瞑す。(言い終わって亡くなった)
不遇のうちに成長した自分を見出し、その死に臨んでは幼い遺児を託そうという、将軍から寄せられた全幅の信頼に応えようとする強い意志が、正之の心の奥深くにはしっかりと根を下ろしていたに違いない。正之が徳川将軍家に寄せる激しい忠誠心は、やがて「会津藩家訓十五カ条」として会津藩家中に下達される。

会津藩家訓十五カ条
一、大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以て自ら処すべからず。若し二心を懐かば即ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず。
一、武備は怠るべからず、士を選ぶを本とすべし。上下の分を乱るべからず。
一、兄を敬い弟を愛すべし。
一、婦人女子の言一切を聞くべからず。
一、主を重んじ法を畏るべし。
一、家中風儀を励むべし。
一、賄を行い媚びを求むべからず。
一、面々依怙贔屓すべからず。
一、士を選ぶに便僻便佞の者をとるべからず。
一、賞罰は家老のほかこれに参加すべからず。若し位を出ずる者あらばこれを厳格にすべし。
一、近侍者をして人の善悪を告げしむべからず。
一、政事は利害を以て道理をまぐべからず。僉議は私意を挟み人言を拒ぐべからず。思うところを蔵せず、以てこれを争うべし。甚だ相争うと雖も我意を解すべからず。
一、法を犯す者は許すべからず。
一、社倉は民のためにこれを置く。永利のためのものなり。蔵餓えれば即ち発出してこれを済う(すくう)べし。これを他用すべからず。
一、若しその志を失い道楽を好み驕奢を致し、士民をしてその所を失わしめば、即ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表蟄居すべし。
右15件の旨堅く之を相守り、以往以て同職の者に申し伝うべきものなり。


家訓十五カ条の最初の条項には、他国の立場がどうであれ会津藩は将軍家に忠誠を尽くすべき旨が記されている。さらに、徳川宗家に忠誠を誓わぬ子孫は自分の子孫ではないから、家中はその命令に従ってはならぬとまで言い切るのである。家訓に示された藩祖保科正之の将軍家に寄せる強烈な忠誠心が、会津藩の藩風を決定づける屋台骨になったと言ってよい。
家訓はわずか15ヵ条という短いものであるが、会津藩の憲法ともいうべき重みを持ち、年頭には学校奉行が家訓を奉読して藩主以下が正装して平伏拝聴する儀式が執り行われた。




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