ドキュメント会津戦争 ~武力討幕~ |
京都で政変が激化し、会津藩主松平容保は京都守護職を任じられ、文久2年(1862)藩兵1000を率いて上洛した。これに対して、国家老の西郷頼母は「この任務にあたるのは、薪を背負って火を救わんとするもの。労多くしてその功はござらぬ」と進言したが、幕府親藩会津への命令であり、断ることはできなかった。 容保は孝明天皇から全幅の信を受け、禁門の変では薩摩とともに過激派の長州を追放、公武合体による幕政改革が成るかに見えた。しかし、慶応2年(1866)突如孝明天皇が崩御し、事態は急変した。天皇の病気は痘瘡とされ、順調に回復に向かうかと思われたが、全身に紫の斑点が現れ、よもやの事態になった。岩倉具視らによる毒殺説も流れ、世情は騒然となった。
これにより、討幕派は幕府を倒す理由がなくなった。焦る薩長ら討幕派は、討幕の密勅を作成するとともに、江戸で騒乱を起こし、幕府を戦いに引き込んだ。まさに捨て身の戦法であった。 一触即発の危機を避け、大坂城にひいた慶喜のもとに、江戸市中警備の庄内藩が、三田の薩摩藩邸を焼き鬱にしたことが伝えられ、情勢は一変。慶喜は、薩長と一戦を交える覚悟を固め、1万5000の軍勢に上京を命じた。一揆に都を制圧しようとしたのである。
薩摩、長州の兵力はせいぜい5000。3倍の兵力を持つ幕府軍はゆとりすらあった。よもや撃ってはこまいという先入観がある。 だが、決死の覚悟で薩摩藩砲兵隊は銃を構えていた。滝川はあまりにも不用意にそこに飛び込んでしまった。強引に通過しようとした滝川の一行に銃撃が浴びせられた。 不意を食らって逃げ惑う幕府兵、刀槍で銃隊に挑む京都見廻組、悲惨な光景が展開された。見廻組は元来、刀槍の集団である。和装で甲をつけ、鎖帷子に両刀をたばさみ、銃は所持していない。この集団が大目付の護衛であったところに、幕府軍の判断の甘さが集約されていた。しかも、鳥羽街道の司令官、陸軍奉行の竹中重固はここにおらず、伏見にいた。これでは戦にならない。 薩摩兵は竹藪に潜み、側面から射撃できる陣形にあった。周囲には砲四門を配置、滝川の後方に待機する幕府軍砲隊に照準を合わせていた。 薩摩兵は火をつく勢いで砲撃を開始し、一弾が幕府軍の大砲を吹き飛ばし、馬が狂奔し疾駆した。ただ幕円と待機していた幕府軍は狼狽し、収拾のつかぬ大混乱を引き起こした。 |