台湾民政長官
 ~阿片問題
 


 阿片漸禁論
ゲリラと並んで台湾統治において最も困難な課題は阿片問題であった。後藤は衛生局長時代、明治28年11月、阿片問題に関する意見書を内務大臣に提出し、それが認められて、台湾との関係を持ち始めたのであった。
その当時、日本では、台湾における阿片を取り締まり、禁止する方法について、様々な意見があった。台湾総督府当局では、徐々に時間をかけて阿片禁止を実現する漸禁論を考えていたけれども、日本国内では反対が強く、人道上の見地からあくまで阿片は厳禁だとすべきだという声が強かった。これに対し後藤は、漸禁論こそ最も合理的な政策であると論じ、様々な実行上の工夫を盛り込んだ意見を提示したのである。
 後藤の案
後藤の案というのは、一、阿片は政府の専売とし、各地に特許薬舗を置き、ここで薬用阿片だけを販売する。二、医師の診断などにより阿片中毒者を確定してこれに通帳を与え、通帳保持者にのみ阿片購入を認める。三、禁止税的意味を以て阿片に高率の税金をかけ、この収入を阿片問題を中心として台湾の衛生状態の改善に使用する、というものであった。これは明治29年2月、基本的に伊藤内閣の採用するところとなり、明治30年1月の台湾阿片令によって実施された。後藤が29年4月から台湾総督府衛生顧問となっていたのは、こうした経緯からであった。
ところが、乃木総督が阿片漸禁論に冷淡であった為、後藤の提案は容易に進展していかなかった。民政長官として自ら漸禁政策の実行に当たる事となった後藤は、まず中毒者の確定に全力を挙げ、明治33年9月に至り、ようやく中毒者の確定に成功した。総数16万9千人ということであって、阿片輸入量から推定されていた患者数とほぼ完全に一致する数字であった。そしてこの数字は、17年後の大正6年には6万2千人、25年後の昭和3年には2万6千人へと減少した。ただし、総督府が阿片製造を中止したのは昭和19年、専売を辞めたのは20年のことで、漸禁の完成までには長い時間を要したのである。
 専売制度の収益に惑わされる?
全体として、後藤の漸禁論は成功を収めたと言ってよい。阿片の禁止は極めて困難な事業だからである。ただし、もう少し早く目標を達成できなかったかという批判はありうる。なぜなら、漸禁政策に伴うはずの患者の治療や、密飲者の摘発・処罰において、総督府は必ずしも厳格ではなかったからである。その理由は、阿片専売の収入が総督府の重要財源となり、これを減らすことに総督府全体が熱を上げにくい所があったらしい。
それは、専売制度にほとんど不回避的に内在する欠点であった。後藤が専売制度を提唱したとき長与専斉は、収益を伴う専売制度だと、どうしても阿片を多く売りたいという事になるのではないかと危惧を述べたといわれる。後藤はこの可能性を、専売収益の使途を衛生目的に限定することで封じるつもりであった。しかしそれは実現されず、専売益金は一般収入とされた。その結果、後藤自身を含めて、専売制度の収益に幻惑されることになったらしいのである。




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