台湾民政長官 ~阿片問題~ |
その当時、日本では、台湾における阿片を取り締まり、禁止する方法について、様々な意見があった。台湾総督府当局では、徐々に時間をかけて阿片禁止を実現する漸禁論を考えていたけれども、日本国内では反対が強く、人道上の見地からあくまで阿片は厳禁だとすべきだという声が強かった。これに対し後藤は、漸禁論こそ最も合理的な政策であると論じ、様々な実行上の工夫を盛り込んだ意見を提示したのである。
ところが、乃木総督が阿片漸禁論に冷淡であった為、後藤の提案は容易に進展していかなかった。民政長官として自ら漸禁政策の実行に当たる事となった後藤は、まず中毒者の確定に全力を挙げ、明治33年9月に至り、ようやく中毒者の確定に成功した。総数16万9千人ということであって、阿片輸入量から推定されていた患者数とほぼ完全に一致する数字であった。そしてこの数字は、17年後の大正6年には6万2千人、25年後の昭和3年には2万6千人へと減少した。ただし、総督府が阿片製造を中止したのは昭和19年、専売を辞めたのは20年のことで、漸禁の完成までには長い時間を要したのである。
それは、専売制度にほとんど不回避的に内在する欠点であった。後藤が専売制度を提唱したとき長与専斉は、収益を伴う専売制度だと、どうしても阿片を多く売りたいという事になるのではないかと危惧を述べたといわれる。後藤はこの可能性を、専売収益の使途を衛生目的に限定することで封じるつもりであった。しかしそれは実現されず、専売益金は一般収入とされた。その結果、後藤自身を含めて、専売制度の収益に幻惑されることになったらしいのである。 |